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インタビュー

Vol.2 

ハーバード大学行政大学院(ケネディスクール)への留学。そこで転機を迎え、変革魂に火がついた

青山社中株式会社 筆頭代表CEO
中央大学客員教授 朝比奈 一郎氏

Ichiro Asahina
1973年東京都生まれ。東京大学法学部卒業。ハーバード大学行政大学院修了(修士)。1997年〜 2010年経済産業省。プロジェクトK(新しい霞ヶ関を創る若手の会)代表として霞が関改革を提言。経産省退職後、2010年に青山社中を設立し、筆頭代表・ CEOに就任。若手リーダーの育成を目指し「青山社中リーダー塾」をスタート。(現在6期生の募集中)その他、ビジネスブレークスルーCh、中央大学大学院(公共政策研究科)、G1東松龍盛塾などでも教鞭をとる。

 

http://aoyamashachu.com/

 

三条市、那須塩原市、川崎市、沼田市の経済活性アドバイザーとして、地域活性化の活動、また、国会(内閣委員会)での公務員制度改革についての意見陳述など、政策支援の活動にも従事。著書は「やり過ぎる力」など多数。


―― 

杉村:前回は、朝比奈さんの青年時代から東大法学部を受験されるに至った背景から、その後、通産省(現:経済産業省)に入省され、留学を意識されるまでのお話を伺いましたが、官僚時代に感じられた問題意識なども、留学を決意することに関係したのでしょうか?

朝比奈:官僚当時、私は通商政策や特許政策を担当し、大変やりがいを感じていました。留学を本格的に意識したのは1998~1999年の小渕内閣の頃でした。ご存知の通り、バブル崩壊後の90年代は後に「失われた10年」と呼ばれ、不況と就職難の時代でした。政府は財政支出を行い、需要を喚起して経済を活性化させようとしたのですが、なかなか景気は良くなりませんでした。その後、世紀が変わる頃から供給重視のサプライサイド改革に転換し、供給側のリストラを進め、減税や規制緩和などを通して勤労意欲を高め、経済を活性化させようとしました。どの部署も深夜まで骨身を削って働いていましたが、いっこうに世の中が良くなる気配は感じられませんでした。

そんな時代が大きく変化する中で、従来的な行政マネジメントの枠を超えた“イノベーションの必要性”と、それを達成する“リーダーシップ”こそが必要なのではないかと強く感じるようになっていました。


―― 

杉村:そこで、留学を本格的に考えられたわけですね。

朝比奈:そうですね。私自身、国に貢献していくためには、国際的な交渉のためにも語学を習得しなければと思っていましたし、人脈やネットワーク作りも必要だと考えていました。そのためにも絶対留学が必要だと。


―― 

杉村:朝比奈さんが留学された、ハーバード大学ケネディスクールは、世界中のあらゆる分野で活躍されているキーパーソンを輩出していて、中でも政治・行政などの公共分野では多くのリーダーを輩出していますね。こちらを留学先に選ばれた理由はどのようなものがあったんですか?

朝比奈:私自身、経済をメインに勉強しようと思っていましたが、同時にケネディスクールは公共政策分野におけるリーダーが多数集うといわれていたので、それが大きな志望理由の一つでした。


―― 

杉村:毎日の仕事がハードな上に、留学準備は相当大変だったのではないでしょうか

 

朝比奈:正直なところ、結構大変でしたね。英語に関しては、まず苦手なリスニングを鍛えようと考えて、大学時代に通っていた予備校の留学コースに通うことにしました。

なかなか厳しい先生でしたが、良い刺激を受けましたね。

「台湾人がなぜ日本語が上手かといったら、日本語を話せなかったら出世ができないから必死さが違うのよ。語学は気合と努力と根性!」

仲間同士で集って、競い合う環境を作りました。気合と根性と努力で『KKD』を合言葉にして(笑)。ケネディスクールの学友であった杉村太郎さんが設立した『プレゼンス』も、仲間と切磋琢磨し合って成果を出すスクールとして有名ですよね。


―― 

杉村:ありがとうございます。目標を達成するに際し、お互い刺激し合える仲間の存在というのはとても重要ですよね。

続いて受験に関しても、お話を聞かせていただけますか?

朝比奈:当時ケネディスクールの受験は、面接がマストではなかったのですが、スコア的に逆転が必要な私はあえて面接を志望しました。「なぜケネディスクールに入りたいのか」を直接、自分の言葉で伝えたかったんですよね。

私が通産省に入省した頃、97年にアジア通貨危機が起き、仕事でマハティール・マレーシア首相(当時)とお会いした時の写真がありまして……、エッセイの内容とは少し異なりましたが、その写真と共に首相と交わしたエピソードなどを熱く面接官に話しました。この面接でのPRが評価されたのかケネディスクールに合格し、2001年に留学することが決まりました。


―― 

杉村:自分から熱心にPRすることを日本人はなかなか敬遠する方が多いですが、朝比奈さんはそういった面からも評価されたんですね。

それでは、いよいよ留学されて、留学を通して最も学ばれたことについても教えてください。

朝比奈:当時、ケネディスクールの学長は、クリントン政権下で安全保障担当国防次官補を務めていたジョセフ・ナイ氏だったのですが、ケネディスクールの教授陣の大半が数年前まで要職についていた方が占めているので、多くの授業が大変リアルで興奮する内容でした。ケーススタディやレクチャー、学生同士のディスカッションも、机上の空論ではなく、実践を意識したものが多かったです。

よくよく考えてみると、役所に戻ったら交渉相手になり得るよう方々が直接の教授陣になるわけですから……改めて考えると、すごい環境だったと思います(笑)


―― 

杉村:エキサイティングな環境だったんですね。

朝比奈:受身に知識や知恵を学ぶ環境ではなく、学生自身が各分野のプロとして、教授や他の学生たちと対等に知識や経験をもとに議論する経験は、私にとってかけがいのない財産となりました。

また多くの仲間との出会いもありましたね。グローバル化によって、もはや国境の内側だけで物事を考える時代ではなくなっています。それぞれの考えや行動が他国の人に影響を与え、私たち自身も、常に彼らの行動から影響を受けています。教授から学ぶだけでなく、学生同士で学びあうことを通し、共に学ぶ課程で芽生えた友情が、国境を越えたネットワークになっていきました。

ジャパンビジネスラボの創業者である杉村太郎さんともケネディスクールで、熱い議論を交わさせていただきました。杉村さんも強い信念と志をもって、日本や世界のために活動されていましたね。


―― 

杉村:ありがとうございます。懐かしい思い出の一つに、ハーバードのチャペルで朝比奈さんがご結婚式を挙げられた日のことを思い出します。たくさんの学友たちに囲まれて素晴らしい結婚式でしたね。

朝比奈:懐かしいですね。元歌手であった太郎さんに、結婚式でなにか歌っていただきたいと依頼をしましたが、「自分で作った歌をプレゼントしたい」と言ってくださり、披露してくださったのは感無量でした。


―― 

杉村:とても懐かしいですね。ボストン時代から、社会平和のためには何ができるのかと熱く語り合った朝比奈さんから留学時代のお話が聞けて本当に良かったです。

 


次回は、留学からお戻りになり、官僚の仕事を再スタートされてからのお話をお聞きします。ボストン時代から変わらぬ朝比奈さんの熱意が伝わってきて、益々頑張ろうという気持ちになります。ありがとうございました。