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インタビュー

Vol.2 

私たちは、援助を待っている人びとの「過去」と「現在」に責任を有する。

だからこそ、「今」立ち上がらなければならない。

国境なき医師団日本 会長 小児科医
加藤 寛幸(かとうひろゆき)氏

Hiroyuki Kato

島根医科大学(1992年)卒業、タイ・マヒドン大学熱帯医学校において熱帯医学ディプロマ取得 (2001年)。東京女子医大病院小児科、国立小児病院・手術集中治療部、Children’s Hospital at Westmead(Sydney Children’s Hospital Network)・救急部、長野県立こども病院・救急集中治療科、静岡県立こども病院・小児集中治療科および小児救急センターに勤務。2003年よりMSFの医療援助活動に参加し、主に医療崩壊地域の小児医療を担当。2015 年3月より現職。MSF参加後は、スーダン、インドネシア、パキスタン、南スーダンへ赴任。東日本大震災、エボラ出血熱に対する緊急援助活動にも従事した。

http://www.msf.or.jp/

 


―― 

杉村:『国境なき医師団』は、紛争地域、災害現場、エボラ出血熱などの感染症が広がる地域で助けを必要としている人びとのもとへ向かい、人種や政治、宗教に関わらず分け隔てなく人道支援を続けていらっしゃいます。

加藤会長が参加を希望され、実際に医療援助活動に携わるまでの間に、何かご苦労はありましたか?

加藤:私が『国境なき医師団』で活動することを決意してから、実際に参加するまでには、10年ほどかかりました。

医師になってから5年、申し込み条件を満たしたため面接を受けましたが、そこには厳しい審査が待っていました。一度目は『語学力が足りない』ことが理由で、二度目は『臨床の力が足りない』という理由で不合格になりました。今思い返すと、活動参加に必要とされていたのは杓子定規な語学力や経験ではなく、厳しい条件下でもブレない精神力や、限られた設備や人的資源の中でも、決断し解決させていく「逞しさ」であったのではないかと感じます。


―― 

杉村:加藤会長の意志の強さが伝わってきます。

それでは、『国境なき医師団』への想いを募らせてから、活動参加までの10年間、日本の医療現場で、どのような活動をされていたのか教えてください。

加藤:私は小児科医として主に「小児救急」を専門にしています。

小児科医は基本的な研修を終えると、小児科の中で何を専門とするのかを決めるようになります。「心臓」「血液」「アレルギー」などが人気があり、「救急」はあまりメジャーではありません。

当時の現場の感覚からすれば、子どもの救急なんて、風邪や胃腸炎、喘息くらいでしょと言われることも少なくなかったのですが、そこには大きなニーズがあると考えています。

夜、急な発熱などで救急を受診する子どもたちは少なくなくありません。虐待や重症の外傷などで受診するケースもあり、子どもたちの命を守る最前線であると考えていました。


―― 

杉村:私も子どもを持つ親として、何度も小児救急の先生方に助けてもらっています。子供を育てる親にとっては、小児救急は必要不可欠な存在だと思います。

加藤:ありがとうございます。皆さんが、安心して子どもを産み育てることができるよう、少しでもお手伝いできればとても嬉しく思います。『国境なき医師団』でも、この「小児救急」での経験は必ず役に立つと思っていました。

しかし医師として歩んでいく中で、徐々に大きな壁を感じるようにもなりました。日本の病院で医師として働くということは、組織に所属するということに他ならず、『国境なき医師団』に参加して海外で医療協力を行うということは、必ずしも歓迎されることではなかったのです。


―― 

杉村:日本の医療制度の中で、「一人の医師として、どのように行動すべきか」を自問自答され、『国境なき医師団』の一員になる決意をされたのですね。

 

 

加藤:『国境なき医師団』の活動に関しても、一度程度の参加ならば、許可してくれる病院もありますが、二度目ともなると、病院に迷惑がかからないよう辞めざるを得ないのが実情です。

実際のところ、私も今は病院を辞めて、夜間休日の救急診療や健康診断のアルバイト医師として診察を行いながら生計を立て、本業とも言える国境なき医師団会長は無給で務めています。

また、私だけでなく『国境なき医師団』に所属する現地に派遣されるほかのスタッフも、活動中の給与は低いですがボランティア精神のもとに参加しています。


―― 

杉村:会長職がボランティアだとは知りませんでした。

それでは、『国境なき医師団』での活動についてもお聞きしたいのですが、初めての活動はどのようなものだったのですか。

加藤:2003年のスーダンでした。当時のスーダンはダルフール危機と言われる状況で、多くの人々が難民や国内避難民となり、過酷な生活を余儀なくされていました。長い紛争で人々も国土も疲弊していました。

私が派遣されたのは、ダルフールではなく、首都にある孤児院でした。しかし、孤児院と呼んでいたのは私たち『国境なき医師団』だけだったかもしれません。そこは、捨てられた子どもたちが死を待つ場所だったようです。

紛争地域における性暴力は大きな問題です。また、厳格なイスラム教国では避妊や中絶は許されませんから、どんなかたちであろうとも妊娠すれば産むしかありません。

また、結婚していない女性が妊娠をすることも罪になるので、仮に暴力によって妊娠したとしても、その女性は処罰の対象になります。被害者でもあるはずの女性とその家族は、厳しい処罰を受けることを恐れて、妊娠中はひっそりと暮らし、こっそりと産んだ後、赤ちゃんを捨てるしかなかったのかもしれません。そういった子どもたちが集められて死を待っていた場所を『国境なき医師団』が見つけ、孤児院と呼び、援助活動を開始したというわけです。

私はそこに毎日連れてこられる捨て子の新生児たちを診察し、予防接種をしたり、必要な処置を行っていました。

2003年に『国境なき医師団』が活動を開始する以前、この孤児院では、1年間におよそ500人の捨て子が連れてこられ、そのうち450人近くが亡くなり、残りの50人は十分な調査もされないまま、どこの誰ともわからないような人たちに里子として引き取られていました。統計によれば、4分の3の子どもたちは、施設に来て1カ月で死んでいました。

どのような理由にせよ子どもたちに罪はないはずです。

なぜ生後間もない子どもたちが死んでいかなくてはならないのか、その現実に耐えられませんでした。


―― 

杉村:初めての派遣先での衝撃は、計り知れないものだったと思います。

私もお聞きしているだけで胸が痛みます。強靭な精神力がないと、任務を果たすことが難しいという意味が理解できました。

世界中には援助を待っている人びとが多くいますが、『国境なき医師団』が活動を決める基準はどういう点になるのでしょうか?

加藤:活動を決める基準は、人々の医療ニーズです。われわれ『国境なき医師団』は、紛争や災害などの発生を常にモニターするとともに、満たされていないニーズの可能性がある地域に赴いて調査をしています。医療の圧倒的な不足がある場合に援助活動を開始します。


―― 

杉村:世界で苦しむ人々のところに援助に行く原動力となるのは、どういった思いなのでしょうか。

 

加藤:医療従事者であっても、自分の目で彼らの死を見つめ、その場に立ち会うことは、その後の人生を大きく変える経験になります。

人道援助活動に身を置きながら、私たちは激しい怒りを覚え、衝撃を受け、時には自分たちの無力さに打ちのめされます。そこで起きていることを、わが身に置き換えた時、抑えきれない感情が湧いてきます。

日本で生まれた子どもたちには決して起こりえないこと、言い換えれば、アフリカで生まれたというだけで、こんなにも多くの子どもたちが、薬がなくて死んでいくというのは、あまりにも不公平で理不尽です。

私も『国境なき医師団』に入るまでは、苦境にある子どもたちと自分には接点がないと思っていました。その私も、医師として『国境なき医師団』に参加することで、彼らとの接点を持つことができました。

世界の問題にただ「ノー」と言っているだけでは何も始まらないように思います。「自分にできることがあるのではないか」という考え、思いを行動に移そうと思いました。


―― 

杉村:自分事、他人事という、乾いた感情とでもいいましょうか。他者の苦境に対し、人間として当然沸いてくるべき感情が、今の世の中には希薄になっているのかもしれません。

加藤会長のお話を伺って、世界を変えていくのは私たち、‟人”なのだということを改めて考えさせられました。


次回は、行動に移す「真に強い人」とは一体どのような人なのか。また、どうあるべきなのかについてもお尋ねしたいと思います。